Masuk
その夜、町は赤かった。
秋祭りの森の奥へ進むにつれ、祐真の足取りは重くなった。 まるで地面そのものが彼の体を引きずり込もうとしているかのようだ。 耳の奥には囁きが絶え間なく響いている。 ──いっしょに。 ──還ろう。 だが、その声の中に混じって、別の音が聞こえ始めた。 笛と太鼓の音。 華やかでありながら、どこか不吉な祭囃子。 気づけば、森の中は灯りで満ちていた。 赤い提灯が枝から吊り下げられ、無数の人影が笑いさざめいている。 それは間違いなく、秋祭りの光景だった。 祐真は息を呑んだ。 (これは……幻覚か? それとも……) 人々の服装は古めかしい。昭和初期のような装束もあれば、もっと昔の時代のものもある。 だが、誰一人として祐真に気づかない。 彼らは一心に、境内のような広場へと向かって歩いていく。 祐真も吸い寄せられるように足を運んだ。 広場の中央には、大きな石の台座があった。 その上に立たされているのは──幼い少女。 白い着物をまとい、頭には紅葉の枝が差されている。 怯えた瞳で周囲を見回していた。 (……生贄) 祐真の背筋に冷たいものが走る。 笛や太鼓が高鳴り、人々の口から一斉に祝詞のような声が溢れ出す。 その言葉は意味を成さない。 だが耳に届くたびに、祐真の頬の印が熱を帯びた。 「やめろ……!」 祐真は声を上げた。だが誰も振り向かない。 祭りの最高潮、太鼓が大きく鳴り響いた瞬間──少女
夜、町は静まり返っていた。 交番の机に広げた地図の上で、祐真は指を動かす。 赤鉛筆で囲ったのは、くれはが消えたとされる森の一帯──「楓の森」。 頬に残る赤い印は、もう細い筋ではなかった。 枝のように複雑に広がり、まるで樹木が皮膚の下から生えてくるようだ。 鏡を見るたび、吐き気を覚えた。 (放っておけば、俺自身が“森に還る”……) だが、そんなことよりも先に──くれはを救わなければ。 翌朝、祐真は再び橘家を訪れた。 春香は玄関先に立ち尽くしていた。 痩せた肩は夜通し泣き明かしたように震えている。 「……刑事さん」 春香は祐真の頬の傷を見て、息を呑んだ。 「やはり、森に選ばれてしまったのですね」 「俺はまだ、囚われちゃいない」 祐真は力強く言った。 「必ず、くれはを連れ戻します」 春香はかすかに微笑んだ。 それは祈りとも諦めともつかない表情だった。 「くれはを見つけても……もし人でなくなっていたら、そのときは──」 祐真はその続きを聞かず、頭を振った。 「そんな可能性は考えない。俺が必ず助ける」 日が沈む頃。 祐真は拳銃と懐中電灯を手に、森の入り口に立った。 紅葉の木々はざわめき、風もないのに葉が舞っていた。 境界を越える一歩手前で、背筋を冷たい汗が流れる。 ──来い。 ──もっと奥へ。 囁きが耳の奥に直接響く。
翌朝。 町の外れにある小さな神社の鳥居をくぐると、冷えた空気が頬を撫でた。 境内の奥には大きな楓の木が立っており、葉はすでに真紅に染まっている。 祐真は思わず足を止めた。 その紅葉は、不気味なほど鮮やかだった。 まるで血を吸って紅くなったかのように──。 社務所の縁側に座っていたのは、白髪の宮司だった。 年齢は七十を越えているだろう。深い皺を刻んだ顔には、何かを知っている者特有の静けさがあった。 「一ノ瀬刑事。……来ると思っていました」 祐真は驚いた。名を告げてもいないのに。 宮司は静かに湯呑を差し出した。 「森の声を聞いたでしょう。あれは“楓の社”の呼び声です」 「呼び声……?」 「この町の楓の森は、古くから“捧げの森”と呼ばれてきました。秋祭りは本来、森へ生け贄を捧げる儀式だったのです」 祐真の胸に冷たいものが落ちる。 宮司は続けた。 「二十年ごとに、森は“娘”を求める。 かつては村人たちが孤児やよそ者を差し出した。 だが明治以降、儀式は途絶え……森は代わりに、血筋を選ぶようになったのです」 「……橘の家、ですか」 祐真の言葉に、宮司はゆっくり頷いた。 「橘家は、この社に仕えてきた家系。 森と血の契りを交わした一族なのです。 だからこそ、森は彼らの娘を求める」 祐真の背筋に氷の刃が走った。 ──呪いは偶然ではなく、血に刻まれた宿命。 祐真は唇を
夜明け前の空はまだ群青色を残していた。 祐真は交番の窓を開け放ち、外の冷たい空気を吸い込んだ。 胸の奥に、昨日から貼りついた不快なざわめきがある。 机の引き出しにしまった赤い葉──それは朝になっても、かすかに湿り気を帯びていた。 「呼ばれてる……」 春香の声が脳裏に響く。祐真は額を押さえ、首を振った。 迷信じゃない。だが、論理で説明できるものでもない。 午前、祐真は町の図書館を訪ねた。 資料室に入り、地元史の棚を漁っていると、背後から声をかけられた。 「刑事さん……また余計なものを探してる」 そこに立っていたのは、司書の老人だった。 痩せた背筋は曲がり、眼鏡の奥で小さな目が細められている。 「橘の家に関わるな」 いきなりそう告げられ、祐真は眉をひそめた。 「なぜです?」 「……あの家は、森に選ばれたんだ。代々、女の子が……」 老人はそこで言葉を濁した。 祐真は思わず問い詰める。 「20年前の失踪も、今回の件も、森と橘家に関係があると?」 「口に出すな!」 老人の声は図書室に不釣り合いなほど鋭かった。 周囲の誰もいない本棚の影。 その一瞬、窓の外の木立がざわめき、紅い葉がひらひらと舞い込んできた。 老人は顔を青ざめさせ、祐真の胸ぐらを掴んだ。 「呼ばれるぞ。あんたもな……!」 その眼に浮かんだのは狂気か、それとも純然たる恐怖か。 夕方。 祐真は橘家を再び訪れた。 春香は仏壇の前
町役場の資料室は、午前の光に照らされながらも重苦しい空気を纏っていた。 古い木造の建物の一角、誰も近寄らない埃まみれの棚の奥に、祐真は目的のものを見つけた。 ──町内で発生した行方不明事件記録簿。 厚いファイルを開いた瞬間、紙の黄ばみと古い墨の匂いが鼻を突いた。 時代を感じさせる手書きの記録。丁寧な筆跡で記された事件の数々が並んでいる。 そして──二十年前の項に、その名はあった。 「橘美桜(三歳)」 日付は秋祭りの夜。 「自宅より外出し、その後行方不明」 捜索を行うも手がかりなし、と短く書かれていた。 祐真は息を詰めた。 苗字は「橘」。 春香と同じ。つまり、春香が20歳のときに失った娘だ。 ページの端には、鉛筆で小さく書き加えられた走り書きがあった。 「赤い葉に導かれた」 「母親の証言、記録せず」 ──なぜ、証言を削った? 祐真の胸に重いものが落ちる。 資料室を出ると、町役場の年配職員が廊下で待っていた。 「刑事さん、あんまり古いものに触れない方がいい」 「どういう意味ですか?」 「……その事件は、この町では“なかったこと”になってるんです」 男は怯えるように声を潜める。 「森に触れた者は、また森に呼ばれる。記録を残せば、繰り返す。そう言われてる」 「迷信で、記録を隠すんですか?」 問い詰める祐真に、男はただ首を振った。 「刑事さん、夜はあの森に近づかない方がいい。あなたまで呼ばれる」 祐真の胸に苛立ちが募る。 迷信を盾に真実から目を背ける──。 だが昨夜見た赤い葉と、木の顔と、少女の声は、どう説明する? その日の夕暮れ、祐真は春香の家を訪ねた。 玄関を開けると、線香の匂いが漂っていた。 居間には小さな仏壇があり、写真立てが置かれている。 そこに映っていたのは、幼い少女。 笑顔の横に「美桜」と名前が書かれていた。 春香は静かに言った。 「……あの子は三つでした。私が目を離したすきに、祭りの音に惹かれて外へ出て。 気づいたときには、もう……」 声が震え、目に涙が溜まる。 「捜したんです。どれだけ叫んでも、答えは返ってこなかった。 ただ、森の奥から、囁きが聞こえたんです。 “かえして”って……」 祐真の背筋に冷たいものが走った。 春香は、唇を噛み、続けた。
赤い葉が降りしきる夜、森は異様な静けさに包まれていた。 虫の声も、鳥の気配もない。ただ、風に揺れる枝葉がざわりと擦れる音が耳にまとわりつく。 祐真は懐中電灯を構え、一歩、また一歩と奥へ進んだ。 湿った土の匂い。踏み込むたびに靴底が沈み、ぬめりを帯びた感触が残る。 振り返れば、参道の灯りはもう見えない。闇が背後を閉ざしていた。 「……気味が悪い」 小さく呟く声さえ、森に吸い込まれる。 やがて視界の端で、赤いものが揺れた。 祐真は立ち止まり、光を向ける。 それは木の幹に貼りついた一枚の葉だった。 しかし、ただの落ち葉ではない。 葉脈が脈打つように動き、幹に滲むような血色を広げている。 「……何だ、これ」 指先で触れかけた瞬間、葉が震えた。 まるで自らの意思で、祐真の手を拒むように。 ──かえれ。 囁きが響いた。 祐真は反射的に懐中電灯を落とし、慌てて拾い上げた。 光が揺れた瞬間、幹の表面に“顔”が浮かび上がった。 女の顔。閉じた瞼。 だが、その口元はゆっくりと開き、赤い葉を吐き出す。 祐真は後ずさった。心臓が激しく脈打つ。 理屈では説明できない。幻覚? 疲労による錯覚? だが足元に落ちた葉は確かに存在していた。 拾い上げると、冷たく湿り、血の匂いがした。 そのとき、森の奥から声がした。 ──ここだよ。 少女の声。 くれはの声だった。 「くれは!」 祐真は思わず叫び、声の方向へ駆け出した。 枝葉が頬を掠め、赤い葉が雨のように降り注ぐ。 光の先に、小さな影が見えた。 白い浴衣姿の少女が、こちらを振り返る。 確かに、くれはだった。 「大丈夫か! 今助ける!」 だが次の瞬間、彼女は静かに笑った。 その瞳は真っ赤に濁り、口から赤い葉が零れ落ちる。 祐真は言葉を失った。 くれはの体が崩れるように地面へ溶け、落ち葉となって散った。 残されたのは一枚の赤い葉だけだった。 ──刑事さん。 背後で声がした。 振り返ると、そこにいたのは晴香だった。 着物姿のまま、蒼白な顔で立っている。 「どうして……ここへ」 「あなたが行くと、分かっていたから」 晴香はかすかに微笑んだ。だがその笑みは恐怖に歪んでいた。 「刑事さん、この森には入ってはいけません。二十年前も、私はここで娘を失ったのです」 その言